モノノホン

モノノホンによると、ここは地球の片隅であり、世界の真ん中であるらしい。

歴史を学ぶ意味、「現代文」という科目について、センター試験の思い出

 歴史を学ぶことに対して、中学高校の記憶をもとに、「歴史は暗記ばかりでつまらない」ということを聞くことがある。「歴史を学ぶことに意味はあるのか」論である。「~~を学ぶことに意味はあるのか」というのは、ほかの教科にも言われ、たとえば数学は「三角関数なんて実生活では使わない」とか、古文は「そんなもの現代では読まない」とか言われる。つまり「実用的でない」ということなのだが、その基準でいくと、学校で学ぶのは「英語」「家庭科」「物理」ぐらいになるだろう。
 しかしながら、「実用的」というのはなかなか厄介な言葉で、たしかに「即戦力」という意味では、僕だって数学の授業以外で三角関数を使った記憶はない。「織田信長がサァ、本能寺でサァ」なんて言っても、それだけで出世できるわけではない。
 でも、それだけで実用的な教科というのは、高校の普通科レベルではほとんど存在しない。学ぶことがやがて身につき、そしていつか還元されるのが大半の学問なのである。
 たとえば歴史。僕たちは、未来を知ることができない。だが、予測することはできる。その予測に役立つもの、そのひとつが過去の事象、すなわち歴史だ。過去を学ぶことは、未来へとつながる。過去、人類はいろんなことを経験してきた。ときに成功があり、ときに失敗があった。現在を生きる我々は、歴史上、最も先の時代を生きていることになる。そのアドバンテージを活かし、過去を知り、そして考えることで、未来を「よりよいもの」へつなげることができる。

 当たり前だが、歴史を学ぶことは暗記をすることではない。高校までの授業の印象が強く、またその後に専門的に歴史を学ぶ人が少ないので、そんなイメージがつきがちだが、大学以降に暗記力が問われる機会はほぼない。覚えているに越したことはないが、それは最重要ポイントではないのだ。
 かくいう僕も、高校では世界史の授業が好きでなかった。カタカナの人名を覚えるのが苦手で、学ぶ地域もコロコロ変わるし、テストでいい点を取った覚えはない。しかし、そういう暗記から離れてから、世界の歴史を学ぶことが楽しくなった。
 地域同士の交流がなかった時代はまだしも、人類があちこち動き出してからの世界は、何かがそれだけで成り立っていることがなく、あらゆるものはあらゆるものにつながっている。どこかで何かが起こったら、それがまた違うどこかへと波及する。その繰り返しだ。世界はつながっていて、そして混ざり合って絶えず変化していることを知ったとき、歴史のおもしろさに触れた気がした。高校生の頃は見えていなかった「全体の流れ」が見えたとき、パッと視界が開けたような気がした。その感動を、僕は鮮明に覚えている。
 そんなふうに、無駄な「学び」なんてないのだと、僕は考えている。

 考えている、としたものの、実を言うと「現代文」だけは、僕はあまり学んだ意義を実感できていない。まあ、国語というのは最も身近な存在だし、実感できないほど身についているのかもしれないが、なんというか、現代文だけはその「罪」の方も見えるのだ。
 たとえば「筆者の気持ちを述べよ」というやつ(今もあるのか知らないけど)。これは筆者が実際に「こう考えていました」と表明してくれないと、答えを出しようがない。「〆切やばい!」だったかもしれないし、「めっちゃトイレ行きたい!」だったかもしれないし、なんなら文字にするのが憚られることを考えていたかもしれない。
 また小説で「このときの主人公の気持ちは?」みたいなのも困る。こういう設問では、往々にして、「天気が○○なので主人公の気分は××」という答えが用意されるが、小説を書いている身からすると、そんなに短絡的な問題ではない。たとえば「雨が降っているので主人公の気分は沈んでいる」みたいなことを言われても、そりゃそういうシーンだってあるだろうが、「めっちゃ気分いい!外は超土砂降り!」という『雨に唄えば』みたいなシーンだって考えられるわけで、ある特定の天気をある特定の心情につなげるのは、極めて危険だ。パターンや固定観念を破るのも文学であり、天気が単純に気持ちにつながるほど、文学は浅くない。
 「筆者の気持ちを述べよ」と言われて、「トイレに行きたかったのかも」と考えるのは、笑い話ですむし、そもそも設問の意図はそういうことではないのだが、「主人公の気持ちを答えよ」と言われて、「天気が雨=気分が沈んでいる」というような公式が出来上がってしまっては、これはもう笑えない。文学には「曖昧さ」があるのであって、その不定形の「曖昧さ」が文学を成立させている側面があるから、にもかかわらずそこに単純な図式を当てはめてしまうと、学んだ者の表現力を薄めてしまうかもしれない。

 この「単純な図式」つまり「決まりごと」の存在を意識したのは、中学生のときだった。校内で弁論大会というものがあり、クラスの代表があれこれ演説するのだが、僕の友人も演台に立った。彼が何を話したのかはもう何も覚えていないのだが、彼が前半は敬体(ですます調)で話して、後半は常体(である調)で話したことに、当時の僕は違和感を覚えた。というのは、学校では「文章は敬体か常体のどちらかに統一しましょう」と教えられていて、両者の混在は「誤ったもの」と学んでいたからだ。
 そんなわけで僕は彼に「よかったよ。でも、敬体と常体が混ざっていたね」と、間違いを指摘するつもりで感想を伝えた。すると彼は、「そうすることが、自分の伝えたいことを伝えるのに効果的だと思ったから」というようなことを言った。「間違ってるよ」と言ったら、「あえてだよ」と言われたのだ。
 彼の言葉は、その後の僕の文章表現を徹底的に変えるものとなった。これは誇張でもなんでもない。「決まりごとなんてなかったんだ」と気づかされたことは、「オリジナル」を目指すための第一歩となった。自分の浅はかさを恥じ、いまも情けないことをしたと思うが、それでもその経験があったからこそ、いまの自分がある。可能性が一気に広がった記念すべき瞬間だ。
 現代文の授業は、「ほんとにそうなのかなあ」と思う場面が多かった。「そんな簡単に言われてもな」という思いは、いまも残っている。
 それでも現代文の授業の意義を考えるなら、僕は「強制的にいろんなタイプの文章を読める」ことを挙げる。分量的に試し読みとなるパターンが多いだろうが、それが入口になって、その文章にもっと深く入り込むケースも多々あると思う。僕にもいくつも身に覚えがある。無理矢理出会わせてくれたことで、その後に蜜月の関係を築いた作家もいる。
 僕は現代文の試験で悩んだことがなく、と同時に現代文の授業で何か有意義なことを学んだ記憶もないので、それが僕の歪んだ「現代文」像につながっているのだとは思う。ただ、ほかの教科とは違い、単純に「学ぶといいことがあるよ!」と言えないのもまた事実であって、これは教える側の責任とか力量がより問われる教科なんだなと思った。

 ところで、母から聞いて、2020年を最後にセンター試験がなくなることを知った。翌年からは記述式も含めた新しい「大学入学共通テスト」というものに変わる予定とのこと。記述式なんて本当に「速く」「正確に」採点することが可能なのだろうかという疑問があるが、とにかく不平等にならないことを願うだけだ。
 僕はセンター試験を2004年に受けた。なぜだかセンター試験の日は全国的に寒くなる気がするが、その年の香川も寒かった(単に厳冬期だからだとも思うが)。朝、まだ暗い中を駅に向かって歩いたことを思い出す。
 僕は英語、国語、数学、日本史、倫理、化学を受けた。英語のリスニングはまだない時代だった。詳細な得点は覚えていないが、後で開示したら自己採点は正確だった。
 この年は化学が難しかった。習った記憶のない「ミョウバン」に関する問題が出たことを受けて、誰かがネットに「ミョウバンなんて知らねえよ、夏」と書き込んで受験生の爆笑と同情を誘った(2002年にそんな感じのタイトルのドラマがあったのです)。
 しかし、全体的には僕に有利な難易度構成になっていたと思う。易しかろうが難しかろうが点の取れない数学Ⅱ・Bと化学が難しくまわりとの差が埋まり、苦手な英語が易化したので落ち込みを防ぎ、倫理が簡単だったので満点を取った。大票田と位置付けていた日本史の点が伸びなかったのは悔しい誤算だったが、それでもトータルでは「よくできた」と思う。一発勝負の試験は当たり外れがモロにあるから、ラッキーだったと言えるだろう。性格的に僕は受験生をもう一年やることは無理だった。

 気がつけば、今年のセンター試験がこの週末に迫っている。すべての受験生が、いま出せるだけのものを発揮できることを願っています。ファイトー、オー。

余談
Wikipediaの『大学入試センター試験』の項目を読むと、河合塾の本気度が見えておもしろいです。